1. 1) 『義演准后日記』慶長10年7月7日条「内裡御屋敷北方ヘヒロカリ, 并院御所ヲ被建, 御即位ノ御支度云々 (中略), 八条宮モ御屋敷替云々, 是モ内裏ノ北方也」。とあるように, 八条宮邸は慶長十年に屋敷替えがあった。ゆえに厳密に言えば八条宮本邸庭園は2つということになる。
2. 2) 智仁親王自ら「瓜畠のかろき茶屋」と呼んだことから, その世界観を大切にするためにあえてそのまま使った。
3. 3) 智仁親王個人に関しては, 桂離宮の創始者として森蘊や久恒秀治によって文献から, 智仁親王個人の教養の広さが述べられているが, 庭園史上における位置付けは十分とはいえない。また, 古今伝受の伝受相伝者というアプローチから小高道子によって研究が進められている。小高道子 (1980): 細川幽齋の古今伝授-智仁親王への相伝をめぐって: 国語と国文学57(8)等, 本論は小高の業績に依るところが大きい。
4. 4) 主に 『隔〓記』 寛永十三年の仙洞御所における口切り茶会が取り上げられている。
5. 5) 宮内庁書陵部蔵。